文系人生

掃き溜め

草原の野井戸

 

こんにちは。

先日、映画『ノルウェイの森』を鑑賞しました。というのも大学のレポートの題材にしたためなのですが、私は映画も原作も過去に読んだことがあって今回は2回目以降の鑑賞でした。そこで、いい感じに考察できたんじゃね?となったので、提出したレポートをブログ用に少し手直してここに公開したいと思います。駄目そうだったら消します。

ネタバレひどいです。あと、私は文学や映像が専門なわけではないので完全に自分の解釈ですし方法も根拠もガバガバなので注意してください。

 

 

 

 

 

映画作品が公開されたのは2010年12月11日で、トラン・アン・ユン監督が指揮をとり松山ケンイチ主演のほか菊地凛子水原希子玉山鉄二などが出演しています。トラン・アン・ユン監督の他の作品はまだ見たことはないのですが、どうやらみずみずしい男女の恋愛映画を撮ることに定評があるようですね。

一方、原作『ノルウェイの森』は村上春樹によって書かれ、1987年9月7日に講談社文庫より刊行されています。

映画が公開された当時、私は中学生で、友達が読んでみなよと本を貸してくれたことがきっかけで原作を読みました。そして本を借りて読んでいる時、不幸にも母親が下巻にジュースをこぼしてしまい新しく買い替えたことで、普段あまり本を買わない私の家に『ノルウェイの森』の上下巻が揃ったという経緯があります。

 

今回はその数年ぶりに原作をしっかりと読み返したのですが、中学生から少し経験を積んでワタナベと同年代になった今の方が、過去に読んだ時には読み取れなかったようなことが鮮やかに理解できるようになっていて、再読することの新鮮さに驚きました。中学生の頃は文章の意味自体は理解出来ていたのですが、現実に当てはめて考えたり作品全体を通して読解するところまでは到達していなかったみたいです。

 

私は村上春樹の作品を『ノルウェイの森』のほかに『1Q84』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』しか読んだことがないのであくまで自分で感じたことなのですが、彼の文体は少し地に足をついていないような、現実味が薄い部分に特徴があるのではないか、と感じます。特に登場人物の話す台詞、例えばワタナベが緑色は好きかと緑に聞かれた時の「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」や「やれやれ」など、実際にはなかなか口にすることが難しいようなどこか小洒落た台詞をよく話していますね。よく村上春樹作品のネタになってるやつです。その台詞回しが彼の少し浮世離れしているような世界観を作り上げているのだと思います。

 

また、登場人物のキャラクターにも強烈な特徴があります。ワタナベはキズキの死から「あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと」を心掛けるようになっています。彼は基本的に受け身な人間で、もし現実にいたら非常に斜に構えた人物だと見なされるでしょう。やれやれ。

緑はひどく奔放な女の子で、性的なことを口にすることに躊躇いもありません。緑ちゃんと飲みに行きたい。友達になろうぜ!

永沢さんなどは外務省試験に合格する頭脳があり、ハツミさんという完璧な恋人が居ながら、何度も行きずりの女の子と関係を持ち、何事も自分を高めるためのプロセスであるかのように常人とかけ離れたヤバいけどどこかカリスマ性がある行動をします。

これらの登場人物は実際にはいないだろうというところと、もしかしたらいるかもしれないという絶妙なところにあります。それは彼らの持つ特徴が、程度は違えど、私たちが実際に少しずつそれを含んでいるためかもしれません。彼らを取り巻く環境やエピソードが結構人間臭いところもあります。ナメクジ食べちゃうとかね。


本文で、唯一太文字で書かれている文章があります。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

ワタナベはキズキの死によってこの結論を導き出します。死は全ての存在の中にすでに含まれており、我々は死を含みながら生きていく。ワタナベは大学時代の過去を振り返って「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」と述べています。この時期は特に死がまとわりついていたということです。

 

本の内容は37歳になったワタナベがドイツに到着する飛行機の中から始まります。そこから彼は、直子と草原を歩く風景を思い出します。この草原の風景は、ほかの内容とは切り取られているように書かれています。

恐らくここの時系列はワタナベが直子のいる療養所を初めて訪れた時で、レイコさんから2人っきりの時間を貰い草原を歩き回っている場面だと考えられます。そこで、ある井戸のエピソードが直子の口から語られるのです。

恐ろしく深い野井戸がこの世のどこかにあり、それはどこにあるか誰にも分からず誰にも見つけることが出来ないが、2.3年に一度誰かが突然落ちてしまうというものです。直子は井戸についてこう述べています。

 

「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」

 

だからきちんと舗装された道からは離れてはいけない、と続きます。そして直子曰く、ワタナベは闇雲に歩き回っても絶対に井戸に落ちることはないとのことだそう。

一見直子の虚言のようにも見えるエピソードですが、この野井戸の概念は非常に重要な役割を担っているのではないでしょうか。

野井戸は恐らく実際にどこかにある井戸ではなく、死の概念に近いです。私たちは生きていることで人生の道を歩いていますが、周囲に潜む死に招かれ、ふらふらと道を外れて、野井戸のある草原に足を踏み入れてしまうといつ井戸に引き込まれるか分からない。これは、ワタナベが気付いた死と生の真理とも矛盾しません。キズキと直子の姉は突然井戸の中に落ちてしまいました。彼らの死によって直子とワタナベは草原に足を踏み入れる。直子はキズキを選んで自ら命を絶ってしまうが、ワタナベは緑と永沢さんのお陰で最終的に舗装道に舞い戻るのです。また、ハツミさんもその死によって永沢さんを捉えます。登場人物がお互いに生や死に引っ張り合いながら物語は進むのです。

 


話は戻りますが、映画は非常に原作に忠実であろうとしているように感じました。細かいところですが映画の最初に浮かび上がってくるタイトル『ノルウェイの森』は講談社文庫で出版した本の表紙にあるフォントと全く同じです。

文字だけで構成されている原作の世界観を映像で再現するのは非常に難しいと思います。ただ映像や時代設定を合わせるだけは足りません。

そこで、村上春樹作品の特徴である台詞回しが採用されるのです。確認したのですが、映画における登場人物の台詞は映像化による多少の変更はあれど、ほとんどが原作通りでした。演技指導によるものなのか、俳優たちは抑揚をつけずに朗読しているように喋り方をしています。しかしその喋り方によって、村上春樹の現実離れした台詞を観客が不自然なく受け入れられるようになる効果を得ていると考えられます。

 

登場人物についても、基本的には原作に忠実でした。主演の松山ケンイチは受け身な主人公ワタナベトオルを演じ切っています。とりわけ菊地凛子は、直子の少しずつ病んでいく様子を忠実に再現していました。原作での直子は病気で上手く言葉を紡ぐことができなくなっています。菊地凛子は説明せずともその言葉を選ぶ空気や間、舌足らずで不自然な言葉の発し方を見事に表現しています。特に、療養所でワタナベを呼び出して草原でキズキとの話を打ち明ける場面や、ワタナベの2回目の訪問の雪が降る場面での菊地凛子は、その取り乱し方や目付きなど、直子の精神の不安定さを恐ろしく感じるほどまで演じています。

 

脇役である高良健吾のキズキも玉山鉄二の永沢さんも、原作通りでありながら映像化によってさらに魅力的になっていましたが、脇役の中でも初音映莉子演じる永沢さんの恋人ハツミさんは超良かったです。私はハツミさんみたいな女性が大好きなので贔屓目になっているからかもしれないのですが、永沢さんの恋愛観と自分の気持ちの狭間で苦しむ様子はもちろん、物分りが良く聡明で美しい女性、ワタナベに「こんなお姉さんがいたらいいのに」と言わしめる女性像がバッチリ現れていたように思います。

対して緑演じる水原希子は、水原希子自身の持つ性質や抱える空気として緑の奔放さと共通していながらも、演技として完全に表現しきれていないんじゃないかな、と思います。彼女はこの作品が女優としてのデビュー作だそうで、多分経験が薄いと村上春樹原作の台詞の読み方とは特に相性が悪くて、とても難しいものになったのだと思います。

原作の緑は賢いながらも非常に自由な女の子であり、異性であるワタナベに対して開けっぴろげにいろんな話をします。その台詞はとても長くて、沢山の話をほとんど一方的にワタナベに話しています。緑はその性質から草原をふらふらとしていたワタナベを生に引き戻します。ワタナベがレイコさんに当てて書いた手紙でもこのように言っています。

 

「…僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。…」

 

原作の世界観を表現したくて抑揚の抑えた話し方を俳優たちに統一しているのかもしれないのですが、緑は表情豊かでワタナベを振り回すエネルギーあるキャラクターであるため、もっと快活に話すようになってもいいと思います。

それから映画で緑が父親の死をワタナベに電話で告げるシーンでは、緑が死に打ちひしがれ涙を流しています。対して原作ではただ小さな声で言っているとだけ記述されています。

原作の緑は、ベランダでの場面で、両親がいなくなっても不思議と全く悲しみを感じない、とワタナベに打ち明けています。病院に来て食欲を失っているワタナベに対して、しっかり食べる時に食べなきゃ駄目よ、とも言います。同情する親戚に対して

 

「…でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰を取ったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するだけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍ぐらい同情しちゃうわよ。…(中略)…口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。…」

 

とめちゃめちゃ地に足をつけた発言をしています。緑ちゃんすごいよ〜。

彼女は周囲の死によって草原に足を突っ込むことはあれどしっかり自力で道に戻る力を身に付けているのではないでしょうか。そのため父親の死によって涙を流し、か弱い女の子のような緑は不自然なのです。(好き勝手言っちゃいましたが私は水原希子さん好きです。インスタフォローしてます。)

 

続いて霧島れいか演じるレイコさんにもちょっと違和感を感じました。原作におけるレイコさんはひどく硬そうな短かい髪をした中年の女性と書かれているのに対して、映画のレイコさんは肩まで髪を伸ばし、どちらかと言うと優しい女性のように見えます。

ビジュアルの違いが問題なのではありません。物語の終盤、レイコさんは療養所を出て旭川で生活することを決意するのですが、それはポジティブな事実であり、自殺した直子に草原に引き込まれながらも療養所の外という道に戻ってしっかりと歩もうとしていることを象徴しているように見えます。また、原作でレイコさんとワタナベはワタナベの新居で共にすき焼きを食べ、直子の葬式を明るくやり直そうとギターで五十曲弾き、最終的に一線を超えます。

レイコさんは以前から草原をふらふらとしている人物で、いつ穴に落ちるか分かりませんでした。療養所を出て旭川でどのような結末を迎えるのかは明言されていませんが、「我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。」と記述されているように、このワタナベの新居での出来事は直子に引っ張られたレイコさんとワタナベを道に引き戻す役割を担っているように感じます。

そのため映画でのレイコさんは、つかみ所のなさそうな優しい女性というよりももう少し自立した人物像であった方が良いと思います。また、映画では葬式をやり直す描写は無くて、2人が直子の死を共有し悲しみを分かち合っているようです。これではワタナベがこのあと緑を選ぶという結末に繋げるには少々不自然なのです。

 

最後にワタナベは緑に「君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい」と電話します。緑は長い沈黙の後にそれらを無視して「あなた、今どこにいるの?」と聞きワタナベが僕は今どこにいるのだろう?と混乱して物語が終わります。

映画におけるこのシーンでは緑が電話を受けるカットが入り、ワタナベが自分を選ぶ言葉を口にしたことを受けて微笑んでいますが、原作では長い沈黙とワタナベがその返答を待つ描写、そして静かな声で「あなた、今どこにいるの?」と言ったとだけ書かれています。この時ワタナベは一カ月近く旅に出ていて、緑からの電話も蔑ろにしています。緑はワタナベが引越しをして三週間音信不通になった時でさえひどく怒り子供っぽい振る舞いをしたのに、ひと月も緑を放ったらかして果たしてこの性急な電話の言葉だけで彼女は微笑んでいられるのでしょうか。あれだけ「選ぶ時は私だけを選んでね」とか言ってたのに連絡してくれないんだもんね。

ところがどっこい、映画における緑とワタナベの仲違いは、ワタナベが緑の言ってほしくない言葉を言ったためであって、それは小説を二時間の映像に収めるための編集であるとはいえ結果的に矛盾の生じない構成となったのです。ここでもし原作通りにするならば緑の微笑みは不必要であり、電話から声のみで充分になると思います。

 

最後のワタナベはどこにいるのでしょう。緑があんな質問をしたのに深い意味は無くて、ただ音信不通だったワタナベの物理的な居場所を聞いただけなのかもしれません。だけど彼はどうやら自分がどこにいるのか本当に分からなくなっているようです。

ここに冒頭の野井戸の概念を当てはめるとスムーズに説明がつくのです。ワタナベは死に引きずられ草原を歩いてしまう種類の人間である。しかし直子が言うにはワタナベは井戸には絶対に落ちないらしい。それは、ワタナベが緑や永沢さんという多少の死の要素では動じないような人物たちと関わり、愛着を持てる人間だからだと見抜いたからなのではないでしょうか。だからキズキと直子という大切な人物から草原に引っ張られても道に戻れる。最後に「緑を呼びつづけていた。」で締めくくられているように、ワタナベは井戸の潜む草原から舗装路に戻る途中であり、これからしっかりと生きつづけていくのです。

 

 

 

レポートを編集したのでおかしな所もあるかもしれませんが、超独断と偏見で解釈してみました。なんだか『ノルウェイの森』って本そのものが舗装路から草原に引きずり込む力を持っているような気がします。読み込んで3日4日くらいは結構キツかったです。思い返せば中学生の途中から急にしんどくてしんどくて病み始めた時期があってまぁ思春期だからだと思ってたのですが、今回読み返してみたことで、もしかしたらこの本に引っ張られたからなのかな、と思ったりもしました。しかしワタナベと同年代になって読み込めるものが変わったことからも、おそらく歳を重ねるとまた見方が変わってくるのだと思います。そういう意味でもとても面白い作品でしたが、まぁ多分もう今後数年は熟読しないと思います。興味があればどうぞアマゾンか近所の書店から。