文系人生

掃き溜め

こんにちは。

 

今どうしても記しておきたいのでここに書き残します。

 

夏目漱石の『文鳥』を読みました。

わたし小学生の頃に貰ってきた文鳥を死なせてしまったことがあったんですが、読んだ瞬間まで完全に忘れてました。どう考えても死ぬべきなのはあの文鳥じゃなくて私の方だったな。

 

家に来た時に感じた世話をしなきゃいけない義務感も、鳥籠に手を入れると暴れ回るのも、全然懐かないのも、ちょっとだけ飛び出た小さな白い羽も、餌やり水やりが面倒になっていくのも、そして反っくり返って動かない文鳥の、文章の全てに身に覚えがありました。鳥籠は私の部屋に置いていたのですがしばらくしてからベランダに置かれるようになりました。たしか寒い季節に入る頃だったと思います。

 

 

こうやって書き出しても時間が戻るわけじゃ無いし私が許されるわけじゃ無いし、むしろ、こうやって自分がした最低なことを人前に出している自分もすごく気持ち悪い。でも抱え込みたくないというエゴにちょっとだけ付き合って欲しいです。ごめんなさい。

 

 

文鳥がどうやって処分されたのかは分かりません。多分母親がどうにかしてくれたんだと思います。今わたしの家には猫がいますが、実家ですし母親から溺愛されているので大丈夫でしょう。でも今のところ1人で生き物を飼うつもりは全く無いです。

 

真夏の昼の夢

こんにちは

 

『ミッドサマー』(2019)をやっと観ました。(遅い)

コロナやらなんやらで映画館で観るのは叶わなかったのですが、話題作ということでめちゃくちゃ気になってて、レンタルして鑑賞しました。

 

 

ネットを見れば考察が吐いて捨てるほどあるのでここでは控えて、ちょっと違う角度からなんとなく感じたことを手短に書きたいと思います。

以下多分うっすらネタバレしてるので注意です。

 

 

 

 

 

 

 

公開時すんごいヒットしてネットをざわつかせ、『ミッドサマー』に関するツイートをめちゃくちゃ見た記憶があります。

なんでこんなにヒットしてるん?って考えてみると、この映画はある意味とっても分かり易い物語だからなのでは?と思いました。

 

謎の村の謎の儀式に巻き込まれる学生たち、ということで、ホルガ村には訳分からん儀式、分からんルーン文字、訳分からん壁画、訳分からん風習…といった謎が盛り沢山なのに、何が分かり易いんだ?と言われるかもしれません。

 

 

でもこの映画は何が分からないのかがはっきりしているのです。

 

 

儀式、ルーン文字、壁画、etc…と謎まみれですが、公式サイトにはこれらの奇習についての解説が書いてあるし、頑張って調べればルーン文字も読み解くことが出来るでしょう。

 

なんだか分からないけどモヤモヤした…という感想を抱いて終わる作品は何が分からないのかすら分からないまま終わることが原因だったりします。

しかし『ミッドサマー』はひとつひとつの謎はとても気づき易いし頑張れば解けるもので、これが一種の謎解きとして機能し、解けた鑑賞者にはカタルシスを与えているのです。

だからこれだけ多くの人の心を掴み、ヒット作となったのだと思います。画面の美しさに関しての120%の拘りも併せて、人気の相乗効果となっています。(新海誠監督による『君の名は。』も同じような理由でヒットしたのかな、とも思いました。)

 

 

 

絶対好きだと思う〜って言われてたのですが、確かに私はこういうの結構好きです。

観賞後一種の爽快感ものすら感じました。(グロに対する自己防衛かもしれませんが)

笑…っていいのか?みたいな場面もあって、俳優さんってめちゃくちゃ体張らなきゃいけないんだな…とちょっと関係ないことまで考えたりしました。

 

ところで外国の若者ってあんな酒飲むみたいなノリでシャブキメるんですか?怖…

キリトリ線8972 km

 

こんにちは。

 

先日好きな俳優さんがインスタで繰り返しお勧めしていた『シリアにて』を今日神保町の岩波ホールにて鑑賞しました。

内戦状態のなか、市民がどのように日常を送っているのかを残酷なまでに描いているこちらの作品は国際映画祭で受賞もしているみたいで、広く評価を受けているようです。

https://in-syria.net-broadway.com/

 

正直、鑑賞中はこれをファンにお勧めするって、一体どんな気持ちで…?と思いつつも、人の感情を揺さぶり心に爪痕を残す作品で、国際的な評価を受けるだけあると理解しました。

推しの俳優さんは良かったら感想教えてください〜ってインスタライブで言ってたけど、文章にしてたらちょっとした感想という量を超えてしまって、これをインスタのDMで送ったらキモすぎてブロックされるリスクが生まれるため泣く泣くここに書いています。(ファンクラブがまだ無い駆け出しの俳優さんはファンレターの送り先を明記してください!まじで!!)

 

 

※今回もネタバレしまくってます

 

 

 

切り取られた24時間


私はとりわけ映画をよく観るわけでも紛争に詳しいわけでも無いのですが(映画レビューが続いているのは映像作品とブログという形が私にとって表現しやすいからです)、

こちらの作品は戦時中の人間を市民目線で描いているという点で、ある意味で映画『この世界の片隅に』と共通しているように感じました。

彼らは現在平和な生活を享受している私たちと何ら変わらない人間で、スマホがあればニュースも動画も見るしタバコも吸うし毎日歯を磨きます。なんなら避難中でも音楽を聴いています。シリアの人もスマホ持ってるんだ…って改めて気づきました。当たり前のことなんだけどね。

洗面所にある歯磨き粉や整髪剤などの沢山のカラフルなチューブが印象的でしたが、チューブのパッケージはやけに現代的で生活感が強く、“今”起きている事なんだと実感します。


ただ、2作品に異なる部分があるとすれば、『この世界〜』はすでに終戦を迎えて主人公は生き延びていて、主人公すずさんを取り巻く人間関係がコミカルに描かれています。

対して、『シリアにて』は決して関係が良好とは言えない隣人や娘の彼氏、使用人が、生きるためとは言えプライバシーの無い同じ空間に押し込まれ(爆発の衝撃で歪まないようになるべく部屋の扉を少し開けているのかな?と思いました…知りませんが…しょっちゅう覗かれてるし…。玄関の厳重な施錠も閉塞感を強めています。)、そして何より紛争が終わっていないがために圧倒的に絶望的で先が見えていません。

もちろんそれは作品として終わっていない紛争を描いているからなんですが、『シリアにて』はそういう連続した日々の中のとある24時間を適当に選んでハサミでチョキチョキと切り取って私たちに見せているようでした。まるで内戦下の彼らにとっての毎日は2時間の映像作品として完結するものでは無いのだと主張しているかのようです。

 

多くの戦争映画は希望や絶望、メッセージ性をドラマチックに織り交ぜていわゆる起承転結に合わせて作品を作っていることでしょう。

しかしこの映画ではオームの夫の生死は不明のままだし、ハリマの夫は助かるか分からない。

ハリマが夫を家に担ぎ込む時、彼女の頭にスナイパーのレーザーが当たっていましたが、彼女は打たれませんでした。それは彼女の身体と引き換えにそういう約束をしたからで、恐らくスナイパーたちはまた来るでしょう。問題は何ひとつ解決していません。

実は私はあらすじをそんなにしっかり確認せずに観に行ったのですが、ハリマが隣人であることやカーリムがオームの娘の彼氏であることなどを理解するのにちょっと時間がかかりました。

 

でもそれらの説明の無さはそれで良いのです。だってそれが目的だから。

私たちが生活する上で突然自己紹介をし始める人間はいないし、24時間以内にドラマチックな展開が起きることも滅多にありません。これは日常の切り取りだから、映画の仕組みとして登場人物を説明する必要も、2時間に起承転結を収める必要もないのです。

 

 

 

 

希望という神話


「生きる希望を捨てない」とキャッチコピーがついていますが、これに私は違和感を感じました。

通常、私たちは普通に生活する上で「生きる希望」を意識することはほとんどありません。内戦が終わったら〇〇をする、将来の夢のために生き延びたい、未来の象徴である赤ん坊に希望を見出す、というような描写が見受けられなかったという点からも、彼女たちは「生きる希望」を抱いて家に籠もっているというより、目の前の襲撃を、暴力を、ただどうやってやり過ごすかだけを考えて生きているようです。

 

「生きる希望」もとい生への欲求はこの世に生まれ落ちた時点で世界中の万人がぼんやりと持っているもので、堕落した現代人が亡くしていて紛争地域にいる人が特別に強く抱いているような言い方はある種の神話のように感じます。

むしろこの作品は、どこか他人事のように感じていた遠い国の紛争下の市民もスマホピコピコするような私たちと何ら変わりのない人間であり、彼らにとっての日常を過ごしているのだと、そういう神話をなるべく取り除くよう努めているのではないでしょうか。(この部分は『この世界〜』と似ていますね、あの時代はまだスマホ無いけど。すずさんたちは1945年の日々をすずさんたちなりに過ごしていました。)

前節で長々と書いたように、彼らと私たちに特別な違いはないということを主張したいのであれば、やっぱり「生きる希望」って言うほどキラキラしたものを持って生きているのとは少し違和感というか、少なくとも私が作品から受けた感覚とズレを感じました。キャッチコピーにケチつけてるみたいでおこがましくてだいぶ恐れ多いね。

 

 

 

 

 

あと細かい点ですが、たまたま主人公2人が女性だったからといって「女の強さ」みたいな読み取り方をしてしまうのは「女が淹れた茶の方が旨い」とか「ママの抱っこの方が泣き止む」みたいな幻想だと思います。暴力のせいで誰かが強くならざるを得ないという状況自体、あるべきでは無いのです。

とはいえこんな閉塞感と絶望に満ちた日常を送っている人が実際にいるんでしょう。誰もが太陽の当たる広い場所で家族と笑い合いながら過ごせる日が来ることを願ってやみません。

 

 

 

 

 

小見出しという機能を学んだのですが、圧倒的に読みやすい。今後も上手に使っていきたい。

ちなみに日本からシリアのダマスカスまで8972 kmだそうです。

推し、重厚感ある映画を紹介してくれてありがとう。ファンレターの宛先、どこですか?

 

草原の野井戸

 

こんにちは。

先日、映画『ノルウェイの森』を鑑賞しました。というのも大学のレポートの題材にしたためなのですが、私は映画も原作も過去に読んだことがあって今回は2回目以降の鑑賞でした。そこで、いい感じに考察できたんじゃね?となったので、提出したレポートをブログ用に少し手直してここに公開したいと思います。駄目そうだったら消します。

ネタバレひどいです。あと、私は文学や映像が専門なわけではないので完全に自分の解釈ですし方法も根拠もガバガバなので注意してください。

 

 

 

 

 

映画作品が公開されたのは2010年12月11日で、トラン・アン・ユン監督が指揮をとり松山ケンイチ主演のほか菊地凛子水原希子玉山鉄二などが出演しています。トラン・アン・ユン監督の他の作品はまだ見たことはないのですが、どうやらみずみずしい男女の恋愛映画を撮ることに定評があるようですね。

一方、原作『ノルウェイの森』は村上春樹によって書かれ、1987年9月7日に講談社文庫より刊行されています。

映画が公開された当時、私は中学生で、友達が読んでみなよと本を貸してくれたことがきっかけで原作を読みました。そして本を借りて読んでいる時、不幸にも母親が下巻にジュースをこぼしてしまい新しく買い替えたことで、普段あまり本を買わない私の家に『ノルウェイの森』の上下巻が揃ったという経緯があります。

 

今回はその数年ぶりに原作をしっかりと読み返したのですが、中学生から少し経験を積んでワタナベと同年代になった今の方が、過去に読んだ時には読み取れなかったようなことが鮮やかに理解できるようになっていて、再読することの新鮮さに驚きました。中学生の頃は文章の意味自体は理解出来ていたのですが、現実に当てはめて考えたり作品全体を通して読解するところまでは到達していなかったみたいです。

 

私は村上春樹の作品を『ノルウェイの森』のほかに『1Q84』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』しか読んだことがないのであくまで自分で感じたことなのですが、彼の文体は少し地に足をついていないような、現実味が薄い部分に特徴があるのではないか、と感じます。特に登場人物の話す台詞、例えばワタナベが緑色は好きかと緑に聞かれた時の「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」や「やれやれ」など、実際にはなかなか口にすることが難しいようなどこか小洒落た台詞をよく話していますね。よく村上春樹作品のネタになってるやつです。その台詞回しが彼の少し浮世離れしているような世界観を作り上げているのだと思います。

 

また、登場人物のキャラクターにも強烈な特徴があります。ワタナベはキズキの死から「あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと」を心掛けるようになっています。彼は基本的に受け身な人間で、もし現実にいたら非常に斜に構えた人物だと見なされるでしょう。やれやれ。

緑はひどく奔放な女の子で、性的なことを口にすることに躊躇いもありません。緑ちゃんと飲みに行きたい。友達になろうぜ!

永沢さんなどは外務省試験に合格する頭脳があり、ハツミさんという完璧な恋人が居ながら、何度も行きずりの女の子と関係を持ち、何事も自分を高めるためのプロセスであるかのように常人とかけ離れたヤバいけどどこかカリスマ性がある行動をします。

これらの登場人物は実際にはいないだろうというところと、もしかしたらいるかもしれないという絶妙なところにあります。それは彼らの持つ特徴が、程度は違えど、私たちが実際に少しずつそれを含んでいるためかもしれません。彼らを取り巻く環境やエピソードが結構人間臭いところもあります。ナメクジ食べちゃうとかね。


本文で、唯一太文字で書かれている文章があります。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

ワタナベはキズキの死によってこの結論を導き出します。死は全ての存在の中にすでに含まれており、我々は死を含みながら生きていく。ワタナベは大学時代の過去を振り返って「生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」と述べています。この時期は特に死がまとわりついていたということです。

 

本の内容は37歳になったワタナベがドイツに到着する飛行機の中から始まります。そこから彼は、直子と草原を歩く風景を思い出します。この草原の風景は、ほかの内容とは切り取られているように書かれています。

恐らくここの時系列はワタナベが直子のいる療養所を初めて訪れた時で、レイコさんから2人っきりの時間を貰い草原を歩き回っている場面だと考えられます。そこで、ある井戸のエピソードが直子の口から語られるのです。

恐ろしく深い野井戸がこの世のどこかにあり、それはどこにあるか誰にも分からず誰にも見つけることが出来ないが、2.3年に一度誰かが突然落ちてしまうというものです。直子は井戸についてこう述べています。

 

「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」

 

だからきちんと舗装された道からは離れてはいけない、と続きます。そして直子曰く、ワタナベは闇雲に歩き回っても絶対に井戸に落ちることはないとのことだそう。

一見直子の虚言のようにも見えるエピソードですが、この野井戸の概念は非常に重要な役割を担っているのではないでしょうか。

野井戸は恐らく実際にどこかにある井戸ではなく、死の概念に近いです。私たちは生きていることで人生の道を歩いていますが、周囲に潜む死に招かれ、ふらふらと道を外れて、野井戸のある草原に足を踏み入れてしまうといつ井戸に引き込まれるか分からない。これは、ワタナベが気付いた死と生の真理とも矛盾しません。キズキと直子の姉は突然井戸の中に落ちてしまいました。彼らの死によって直子とワタナベは草原に足を踏み入れる。直子はキズキを選んで自ら命を絶ってしまうが、ワタナベは緑と永沢さんのお陰で最終的に舗装道に舞い戻るのです。また、ハツミさんもその死によって永沢さんを捉えます。登場人物がお互いに生や死に引っ張り合いながら物語は進むのです。

 


話は戻りますが、映画は非常に原作に忠実であろうとしているように感じました。細かいところですが映画の最初に浮かび上がってくるタイトル『ノルウェイの森』は講談社文庫で出版した本の表紙にあるフォントと全く同じです。

文字だけで構成されている原作の世界観を映像で再現するのは非常に難しいと思います。ただ映像や時代設定を合わせるだけは足りません。

そこで、村上春樹作品の特徴である台詞回しが採用されるのです。確認したのですが、映画における登場人物の台詞は映像化による多少の変更はあれど、ほとんどが原作通りでした。演技指導によるものなのか、俳優たちは抑揚をつけずに朗読しているように喋り方をしています。しかしその喋り方によって、村上春樹の現実離れした台詞を観客が不自然なく受け入れられるようになる効果を得ていると考えられます。

 

登場人物についても、基本的には原作に忠実でした。主演の松山ケンイチは受け身な主人公ワタナベトオルを演じ切っています。とりわけ菊地凛子は、直子の少しずつ病んでいく様子を忠実に再現していました。原作での直子は病気で上手く言葉を紡ぐことができなくなっています。菊地凛子は説明せずともその言葉を選ぶ空気や間、舌足らずで不自然な言葉の発し方を見事に表現しています。特に、療養所でワタナベを呼び出して草原でキズキとの話を打ち明ける場面や、ワタナベの2回目の訪問の雪が降る場面での菊地凛子は、その取り乱し方や目付きなど、直子の精神の不安定さを恐ろしく感じるほどまで演じています。

 

脇役である高良健吾のキズキも玉山鉄二の永沢さんも、原作通りでありながら映像化によってさらに魅力的になっていましたが、脇役の中でも初音映莉子演じる永沢さんの恋人ハツミさんは超良かったです。私はハツミさんみたいな女性が大好きなので贔屓目になっているからかもしれないのですが、永沢さんの恋愛観と自分の気持ちの狭間で苦しむ様子はもちろん、物分りが良く聡明で美しい女性、ワタナベに「こんなお姉さんがいたらいいのに」と言わしめる女性像がバッチリ現れていたように思います。

対して緑演じる水原希子は、水原希子自身の持つ性質や抱える空気として緑の奔放さと共通していながらも、演技として完全に表現しきれていないんじゃないかな、と思います。彼女はこの作品が女優としてのデビュー作だそうで、多分経験が薄いと村上春樹原作の台詞の読み方とは特に相性が悪くて、とても難しいものになったのだと思います。

原作の緑は賢いながらも非常に自由な女の子であり、異性であるワタナベに対して開けっぴろげにいろんな話をします。その台詞はとても長くて、沢山の話をほとんど一方的にワタナベに話しています。緑はその性質から草原をふらふらとしていたワタナベを生に引き戻します。ワタナベがレイコさんに当てて書いた手紙でもこのように言っています。

 

「…僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。…」

 

原作の世界観を表現したくて抑揚の抑えた話し方を俳優たちに統一しているのかもしれないのですが、緑は表情豊かでワタナベを振り回すエネルギーあるキャラクターであるため、もっと快活に話すようになってもいいと思います。

それから映画で緑が父親の死をワタナベに電話で告げるシーンでは、緑が死に打ちひしがれ涙を流しています。対して原作ではただ小さな声で言っているとだけ記述されています。

原作の緑は、ベランダでの場面で、両親がいなくなっても不思議と全く悲しみを感じない、とワタナベに打ち明けています。病院に来て食欲を失っているワタナベに対して、しっかり食べる時に食べなきゃ駄目よ、とも言います。同情する親戚に対して

 

「…でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰を取ったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するだけでウンコがかたづくんなら、私みんなの五十倍ぐらい同情しちゃうわよ。…(中略)…口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。…」

 

とめちゃめちゃ地に足をつけた発言をしています。緑ちゃんすごいよ〜。

彼女は周囲の死によって草原に足を突っ込むことはあれどしっかり自力で道に戻る力を身に付けているのではないでしょうか。そのため父親の死によって涙を流し、か弱い女の子のような緑は不自然なのです。(好き勝手言っちゃいましたが私は水原希子さん好きです。インスタフォローしてます。)

 

続いて霧島れいか演じるレイコさんにもちょっと違和感を感じました。原作におけるレイコさんはひどく硬そうな短かい髪をした中年の女性と書かれているのに対して、映画のレイコさんは肩まで髪を伸ばし、どちらかと言うと優しい女性のように見えます。

ビジュアルの違いが問題なのではありません。物語の終盤、レイコさんは療養所を出て旭川で生活することを決意するのですが、それはポジティブな事実であり、自殺した直子に草原に引き込まれながらも療養所の外という道に戻ってしっかりと歩もうとしていることを象徴しているように見えます。また、原作でレイコさんとワタナベはワタナベの新居で共にすき焼きを食べ、直子の葬式を明るくやり直そうとギターで五十曲弾き、最終的に一線を超えます。

レイコさんは以前から草原をふらふらとしている人物で、いつ穴に落ちるか分かりませんでした。療養所を出て旭川でどのような結末を迎えるのかは明言されていませんが、「我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。」と記述されているように、このワタナベの新居での出来事は直子に引っ張られたレイコさんとワタナベを道に引き戻す役割を担っているように感じます。

そのため映画でのレイコさんは、つかみ所のなさそうな優しい女性というよりももう少し自立した人物像であった方が良いと思います。また、映画では葬式をやり直す描写は無くて、2人が直子の死を共有し悲しみを分かち合っているようです。これではワタナベがこのあと緑を選ぶという結末に繋げるには少々不自然なのです。

 

最後にワタナベは緑に「君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい」と電話します。緑は長い沈黙の後にそれらを無視して「あなた、今どこにいるの?」と聞きワタナベが僕は今どこにいるのだろう?と混乱して物語が終わります。

映画におけるこのシーンでは緑が電話を受けるカットが入り、ワタナベが自分を選ぶ言葉を口にしたことを受けて微笑んでいますが、原作では長い沈黙とワタナベがその返答を待つ描写、そして静かな声で「あなた、今どこにいるの?」と言ったとだけ書かれています。この時ワタナベは一カ月近く旅に出ていて、緑からの電話も蔑ろにしています。緑はワタナベが引越しをして三週間音信不通になった時でさえひどく怒り子供っぽい振る舞いをしたのに、ひと月も緑を放ったらかして果たしてこの性急な電話の言葉だけで彼女は微笑んでいられるのでしょうか。あれだけ「選ぶ時は私だけを選んでね」とか言ってたのに連絡してくれないんだもんね。

ところがどっこい、映画における緑とワタナベの仲違いは、ワタナベが緑の言ってほしくない言葉を言ったためであって、それは小説を二時間の映像に収めるための編集であるとはいえ結果的に矛盾の生じない構成となったのです。ここでもし原作通りにするならば緑の微笑みは不必要であり、電話から声のみで充分になると思います。

 

最後のワタナベはどこにいるのでしょう。緑があんな質問をしたのに深い意味は無くて、ただ音信不通だったワタナベの物理的な居場所を聞いただけなのかもしれません。だけど彼はどうやら自分がどこにいるのか本当に分からなくなっているようです。

ここに冒頭の野井戸の概念を当てはめるとスムーズに説明がつくのです。ワタナベは死に引きずられ草原を歩いてしまう種類の人間である。しかし直子が言うにはワタナベは井戸には絶対に落ちないらしい。それは、ワタナベが緑や永沢さんという多少の死の要素では動じないような人物たちと関わり、愛着を持てる人間だからだと見抜いたからなのではないでしょうか。だからキズキと直子という大切な人物から草原に引っ張られても道に戻れる。最後に「緑を呼びつづけていた。」で締めくくられているように、ワタナベは井戸の潜む草原から舗装路に戻る途中であり、これからしっかりと生きつづけていくのです。

 

 

 

レポートを編集したのでおかしな所もあるかもしれませんが、超独断と偏見で解釈してみました。なんだか『ノルウェイの森』って本そのものが舗装路から草原に引きずり込む力を持っているような気がします。読み込んで3日4日くらいは結構キツかったです。思い返せば中学生の途中から急にしんどくてしんどくて病み始めた時期があってまぁ思春期だからだと思ってたのですが、今回読み返してみたことで、もしかしたらこの本に引っ張られたからなのかな、と思ったりもしました。しかしワタナベと同年代になって読み込めるものが変わったことからも、おそらく歳を重ねるとまた見方が変わってくるのだと思います。そういう意味でもとても面白い作品でしたが、まぁ多分もう今後数年は熟読しないと思います。興味があればどうぞアマゾンか近所の書店から。

 

歯医者とタオル

 

お久しぶりですね。

まさか私も一年近く放置するとは思いませんでした。ほんとに3日で飽きてんじゃん…

久しぶりに自分の書いたこの文章を読んでみると、気持ち悪すぎて泣けてきちゃいますね。お父さんお母さんごめんね。就職活動も微妙な感じで終わりました。

 

ちょいちょい「あーブログ放置してるなー」って思い出してはいたんですが書くまでには至らず……………

まぁこうやってまた始めたわけだし不定期にでもやることが大切だよね!ポジティブ!私は前しか向かないぜ!

 

なんでまた書こうとしたかというとこれは本当にちょっとしたきっかけでして。怪我の描写があるのでもしかしたら読む方によっては気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。

 

まず半年ほど前に左下の奥歯に違和感を感じたんですね。ヤダ虫歯かも?歯医者さんに予約しなきゃ!

 

でも歯医者って怖くないですか?私はめちゃくちゃ怖いです。

これが当時の私のGoogle検索履歴です。

f:id:AppleLemon_Tea:20190226011443j:image

 

いや、衛生士さんも歯医者さんもとても優しい方ばかりなのは分かるんです。技術の進歩で治療も痛みのないようにしてくれてるのも分かるんです。それでも、予約するのにすごーーーく高いハードルがあるんですよね。

ていうのもこれは勝手な想像なんですが、虫歯って痛みを感じたら大体手遅れって言われてるじゃないですか。それって歯磨きが足りないとか正しくないとか、甘いもの食べすぎとかそういう生活の基本的なことが出来ていないこと、もしくはめちゃくちゃ心当たりがあることでお医者さんに怒られるんじゃないかと怯えちゃうからなのではないでしょうか。それでずるずると予約を先送りにすると、まぁ自力じゃ治せないのでますます虫歯は酷くなる…そしてまた予約の電話はできない…という悪循環に陥りやすいんだと思います。

 

兎にも角にも頑張って予約を済ませて歯医者さんに行った結果、奥歯に異常はなし、歯周ポケットが少し深いので歯磨きの指導を受けてこれからまた通って行きましょうねという結果になりました。ビビってた割に呆気なかったですね。

 

治療を受けたり口内のお掃除をしてもらってる時って、目の上にタオルを掛けられますよね。ちょっと薄くてゴワゴワのあれです。だいたいピンクか黄色をしてます。

あのタオルっていつから始まったんでしょう。美容院でシャンプーされてる時もよくタオルを掛けられます。視線の先に困るので基本的に助かりますよね。もしあれが無かったら、目が合って超絶微妙な空気が流れること間違いなしです。

人生で初めて目の上にタオルをかけられた時って覚えていますか?

幼稚園児の頃、家の近くに広場があってそこで友達とよく遊んでました。今は改装されてちょっと狭くなったらしいです。その広場、周りの道路より少し低くなってて階段で降りるようになっていました。私は三輪車か補助輪付きの自転車か忘れましたが、このままだと階段を降りられないので広場の縁に自転車だか三輪車だかを停めて、下のベンチに座っている母親の元に駆けて行ったんです。

その瞬間がどうなっていたのかイマイチよく覚えていないのですが、5歳の私は母親の座るベンチのすぐ前で転んでしまい、ベンチの座席に顎を強打しました。口の中が切れて、なぜか運ばれた先の交番で警察官の方の手の上に口の中の血まみれの皮膚片を吐き出したのをめちゃめちゃ鮮明に覚えています。(ご気分を害された方がいたら申し訳ありません)

鏡でご自分の下唇の裏を見てもらうと分かると思うんですが、多分一本の筋みたいなものがあると思います。私はこの広場事件でその部分が切れて何針か縫うことになってしまったので筋が二本になってるんです。増えちゃいました。まぁ外から見ても分からないし、日常に支障は無くて思い出さない限りは忘れてるので本当に些細なことなんですが。

そうです、ここで口内を縫われている時、初めて目の上にタオルを掛けられたのです。当時は泣き喚きすぎてどれ程痛かったのかあまり思い出せないのですが、多分部分麻酔だったんでしょうね。「口は内臓」って聞いたことがありますか?自分の口の中というちょっとパーソナルで生々しい部分に訳の分からない道具をたくさん突っ込まれていじくり回されるってなかなか気味が悪いもんです。なんで目隠しすんねん!って思ったのをよく覚えています。

これが私の初、目の上にタオル体験です。先週の歯医者の治療で走馬灯の如く記憶が蘇ってきたのでここに記します。

ちなみに歯周ポケットの治療は先週完了して歯科衛生士さんから歯ブラシを貰いました。歯医者さんは優しいです。皆さんも定期検診は行きましょうね。