文系人生

掃き溜め

キリトリ線8972 km

 

こんにちは。

 

先日好きな俳優さんがインスタで繰り返しお勧めしていた『シリアにて』を今日神保町の岩波ホールにて鑑賞しました。

内戦状態のなか、市民がどのように日常を送っているのかを残酷なまでに描いているこちらの作品は国際映画祭で受賞もしているみたいで、広く評価を受けているようです。

https://in-syria.net-broadway.com/

 

正直、鑑賞中はこれをファンにお勧めするって、一体どんな気持ちで…?と思いつつも、人の感情を揺さぶり心に爪痕を残す作品で、国際的な評価を受けるだけあると理解しました。

推しの俳優さんは良かったら感想教えてください〜ってインスタライブで言ってたけど、文章にしてたらちょっとした感想という量を超えてしまって、これをインスタのDMで送ったらキモすぎてブロックされるリスクが生まれるため泣く泣くここに書いています。(ファンクラブがまだ無い駆け出しの俳優さんはファンレターの送り先を明記してください!まじで!!)

 

 

※今回もネタバレしまくってます

 

 

 

切り取られた24時間


私はとりわけ映画をよく観るわけでも紛争に詳しいわけでも無いのですが(映画レビューが続いているのは映像作品とブログという形が私にとって表現しやすいからです)、

こちらの作品は戦時中の人間を市民目線で描いているという点で、ある意味で映画『この世界の片隅に』と共通しているように感じました。

彼らは現在平和な生活を享受している私たちと何ら変わらない人間で、スマホがあればニュースも動画も見るしタバコも吸うし毎日歯を磨きます。なんなら避難中でも音楽を聴いています。シリアの人もスマホ持ってるんだ…って改めて気づきました。当たり前のことなんだけどね。

洗面所にある歯磨き粉や整髪剤などの沢山のカラフルなチューブが印象的でしたが、チューブのパッケージはやけに現代的で生活感が強く、“今”起きている事なんだと実感します。


ただ、2作品に異なる部分があるとすれば、『この世界〜』はすでに終戦を迎えて主人公は生き延びていて、主人公すずさんを取り巻く人間関係がコミカルに描かれています。

対して、『シリアにて』は決して関係が良好とは言えない隣人や娘の彼氏、使用人が、生きるためとは言えプライバシーの無い同じ空間に押し込まれ(爆発の衝撃で歪まないようになるべく部屋の扉を少し開けているのかな?と思いました…知りませんが…しょっちゅう覗かれてるし…。玄関の厳重な施錠も閉塞感を強めています。)、そして何より紛争が終わっていないがために圧倒的に絶望的で先が見えていません。

もちろんそれは作品として終わっていない紛争を描いているからなんですが、『シリアにて』はそういう連続した日々の中のとある24時間を適当に選んでハサミでチョキチョキと切り取って私たちに見せているようでした。まるで内戦下の彼らにとっての毎日は2時間の映像作品として完結するものでは無いのだと主張しているかのようです。

 

多くの戦争映画は希望や絶望、メッセージ性をドラマチックに織り交ぜていわゆる起承転結に合わせて作品を作っていることでしょう。

しかしこの映画ではオームの夫の生死は不明のままだし、ハリマの夫は助かるか分からない。

ハリマが夫を家に担ぎ込む時、彼女の頭にスナイパーのレーザーが当たっていましたが、彼女は打たれませんでした。それは彼女の身体と引き換えにそういう約束をしたからで、恐らくスナイパーたちはまた来るでしょう。問題は何ひとつ解決していません。

実は私はあらすじをそんなにしっかり確認せずに観に行ったのですが、ハリマが隣人であることやカーリムがオームの娘の彼氏であることなどを理解するのにちょっと時間がかかりました。

 

でもそれらの説明の無さはそれで良いのです。だってそれが目的だから。

私たちが生活する上で突然自己紹介をし始める人間はいないし、24時間以内にドラマチックな展開が起きることも滅多にありません。これは日常の切り取りだから、映画の仕組みとして登場人物を説明する必要も、2時間に起承転結を収める必要もないのです。

 

 

 

 

希望という神話


「生きる希望を捨てない」とキャッチコピーがついていますが、これに私は違和感を感じました。

通常、私たちは普通に生活する上で「生きる希望」を意識することはほとんどありません。内戦が終わったら〇〇をする、将来の夢のために生き延びたい、未来の象徴である赤ん坊に希望を見出す、というような描写が見受けられなかったという点からも、彼女たちは「生きる希望」を抱いて家に籠もっているというより、目の前の襲撃を、暴力を、ただどうやってやり過ごすかだけを考えて生きているようです。

 

「生きる希望」もとい生への欲求はこの世に生まれ落ちた時点で世界中の万人がぼんやりと持っているもので、堕落した現代人が亡くしていて紛争地域にいる人が特別に強く抱いているような言い方はある種の神話のように感じます。

むしろこの作品は、どこか他人事のように感じていた遠い国の紛争下の市民もスマホピコピコするような私たちと何ら変わりのない人間であり、彼らにとっての日常を過ごしているのだと、そういう神話をなるべく取り除くよう努めているのではないでしょうか。(この部分は『この世界〜』と似ていますね、あの時代はまだスマホ無いけど。すずさんたちは1945年の日々をすずさんたちなりに過ごしていました。)

前節で長々と書いたように、彼らと私たちに特別な違いはないということを主張したいのであれば、やっぱり「生きる希望」って言うほどキラキラしたものを持って生きているのとは少し違和感というか、少なくとも私が作品から受けた感覚とズレを感じました。キャッチコピーにケチつけてるみたいでおこがましくてだいぶ恐れ多いね。

 

 

 

 

 

あと細かい点ですが、たまたま主人公2人が女性だったからといって「女の強さ」みたいな読み取り方をしてしまうのは「女が淹れた茶の方が旨い」とか「ママの抱っこの方が泣き止む」みたいな幻想だと思います。暴力のせいで誰かが強くならざるを得ないという状況自体、あるべきでは無いのです。

とはいえこんな閉塞感と絶望に満ちた日常を送っている人が実際にいるんでしょう。誰もが太陽の当たる広い場所で家族と笑い合いながら過ごせる日が来ることを願ってやみません。

 

 

 

 

 

小見出しという機能を学んだのですが、圧倒的に読みやすい。今後も上手に使っていきたい。

ちなみに日本からシリアのダマスカスまで8972 kmだそうです。

推し、重厚感ある映画を紹介してくれてありがとう。ファンレターの宛先、どこですか?